●新潟市図 大正15年製(第1図)
流作場の全体がわかる図として大正15年の新潟市図。 大正14年二代目万代橋が木橋で大正7年ころより自動車が現れ交通量が増加した。木橋で老朽化のため架け替えの決議が県議会を通過した。また古信濃川から対岸へ3本の渡しがあった様子が見られる。 3、昭和18年から33年ころまで万代シティー周辺の区画がはっきりみえているが、旧新潟駅(現代々木ゼミ、東映ホテルなどの周辺)など今の駅とは違っている、まだ東大通りはない。
●流作場に 二枚の地図 (昭和29年9月万代校校長:竹山洋一郎編纂 流作場のおいたち)
二枚とも私たちの町流作場の地図です。第一図は今から30年前の地図で第二図は今の地図です。 ずいぶんようすがちがっていますね。どんなことにきがつきますか。今家がたっているあたりも昔は、ほとんど家や田んぼや畑ですね。今、鉄道局、貯金局、バス会社、保健所、万代駅、日通支社などのあるふきんは、道がごばんの目のように、きちんとついていて、たくさんのおおきな建物がありますが、30年前はどうですか。よしのいっぱいはえた川になっていますね。今、こんなにおおきなたてものがたくさんある。この町も30年ばかり前には第1図のように、家もすくなく、田んぼや畠ばかりであったなどとはまったくおどろくではありませんか。 ところがもっとおどろくことがあります。 400年ほど前までは、流作場ぜんたいがとうとうと流れる信濃川の真ん中であったときいたらどうでしょうか。しかし、昔からの書物や地図をたどってしらべて見ると、やっぱり川の本流であったことがわかります。 ではどうして川の真ん中であったのがこんなりっぱな町になったのでしょうか。 次回につづく |