新潟市 万代商店街と流作場の今昔 三叉路付近の昔 

流作場・万代商店街
流作場と万代商店街のあゆみ
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商店街と流作場の今昔

●三叉路付近の昔    
 万代町 櫻井 タミヰ(71)

私の子供の頃、万代橋をおりたあたりには家が2、3軒でした。
今の三叉路のあたりが万代橋のおいくちで、そこに「はりよ」という料理屋のような茶屋がありました。
ホテル新潟の所に八木様の別荘があってそれが今の割烹万代です。
私の家は明治23年にこの辺では一番はじめに田んぼの中へ建てた家です。
もう70年になります。
二ヶ月ほどたって竹石網屋さんの家ができ、その下隣に一軒あって、この三軒だけでした。
電気会社のあたりに簾をまわして鴨をかっていました。
そのほかは一面の青田と蓮田がありました。
私の家は今は酒屋ですが、その頃はこしかけ茶屋でした。
酒や駄菓子を売っていて、店先にわらじがたくさんさげてありました。
新発田から歩いてくると、この辺でお昼になるので店先に腰かけて味噌汁を出してもらって中食をすまして、新しいわらじに履き替えて新潟へ向かうことになっていました。
冬には丸太をもやしてこの人たちを暖めてやりました。
今の竹石網屋さんの家は先祖代々がここへ家を建ててラムネ製造をしていました。
そのラムネは町のなんか屋へ卸していたようです。そのかたわらに網を売っていました。
そのほかは一面の青田と梨畠でした。
沼垂のほうへ行くと今の沼垂高校のあたりから家がポツポツあって学校へまがる道角に藤原という占い師が住んでいました。
万代校の向かいに少々畠があり、猪股さんの家の裏あたりと、向かいの青果会社の裏には農家がたくさんあり、その辺に梨畠があり、その向こうに行くともう家がつづいていました。
(後略)

◆ 亡母の思い出に寄せて 櫻井酒たばこ商店 櫻井壹栄さん

  私の母が生まれたのは明治35年ですから、子ども時代の想い出などが書かれているこの時代は、すでに万代橋もあり、うちの店が「こしかけ茶屋」を商っていた明治末期の頃のことかと思います。
  文中にある「一面の蓮田と青田…」の記述は、私が10才の頃とあまり変わらない風景のような気がします。
  当時、家の前の道路は砂利道の県道で、車の往来もけっこうありました。そのせいか、道路下の下水管の不等沈下があったり、車の振動や騒音も激しく、現在のようないい道ではありませんでした。
  現在の新潟駅方面は一面見渡すかぎりの畑で、なにひとつありませんでした。
  私は昭和5年生まれですが、高校時代は歩いて万代橋をわたって新潟商業高校(現)に通いました。当時まだ各家庭に水道が引かれてなかったので、信濃川へ水汲みにいき、これを炭、砂、シュロの入った水瓶に入れ、飲用としていました。
  亡母から、「この店は万代橋から来る人の、休憩や旅の一服茶屋としてずいぶん繁盛した」と、よく聞かされたものです。苦労も多かったと思いますが、84才まで元気に過ごし、晩年はとくに孫をかわいがっていました。
  商店会活動は各会がそれぞれに…、というかたちで歩んできました。時代の変遷と共に、しぜんとまちが形成されてきたのですが、今後もこのままでいいとは思いません。時代を見据えた、暮らしやすいまちづくりが必要だと思います。

語る人 櫻井タミヰさん
写真:ご親族 櫻井壹栄さん


語る人 櫻井タミヰさんご親族 櫻井壹栄さん


語る人シリーズ

1.流作場
  ■語る人 三社神社:大橋宮司さん
2.流作場の昔
  ■語る人 本間七郎治さん
3.三叉路付近の昔
  ■語る人 櫻井タミヰさん
4.商店街と流作場の今昔
  ■語る人 猪股昭英さん


古地図

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