沼垂物語・万代地区のまち・ひと・いまむかし 流作場の昔 

流作場・万代商店街
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沼垂物語 昭和42年3月沼垂郷土史研究個人会

●流作場の昔
  中天明町 本間七郎治(77)

流作場と一口にいいますが、その場所は気象台の横にあった古信濃川にそって新潟駅の裏から、長嶺小学校の前にあった堀から信濃川へ入るその間の広い地域なのです。
こんな大きな島が元禄10年ころ(1697年)に信濃川の附寄島としてできたのですから 昔の川の力は大きいものでした。
その時にも沼垂と新潟の間にこの島の所属について争いがおこって島は新潟のものに決まりました。
沼垂は溝口領で新潟は天下領(幕府の直領)であったのでいつも沼垂は負けていました。
その後延享4年に安倍玄的さんがほかの人と一緒にこの大きな島を畑に開墾したのです。
(中略)

この辺は昔田んぼでしたが、大正の沼垂の大火事で焼けてから竜が島のあたりの人がここへ移ってきて、
中天明町、東天明町ができたもので、この辺は4,50年しかたっていません。
三叉路あたりは前の木の万代橋の東おり口でしたので少し家がありました。
右側にははりよの料理屋と健太車屋、ちかさんの駄菓子屋くらいで、左側には三方新平と一日市屋の酒屋(小林)、となりに阿部床屋がありました。
旧駅の方には明治37年頃には住吉屋ができ、それから篠田、福寿の旅館や大沢土産物屋ができました。
万代町の方へ行くと桜井酒茶屋、その向かい側に竹石網屋、その向うに神末料理屋、竹中饅頭屋、こんな家が割合に古くてあとはなにもない広っぱでした。

今の沼垂の通りは万代橋のできた年の明治19年にできたものでした。両側は田、畑、蓮田と梨畑でした。
天明町の電灯は大正3年につきました。百姓がはさ場の木を切らせなかったので、はさの木を切ってからやっとついたのです。 水道がきたのは20年前でしょうか。
それまでは舟に手桶をつんで天明町川から大川まで水汲みに行ってきました。古地図ページへリンク 私の家は昔からの資料がいろいろあったのですが維新戦争のとき、松ヶ崎から西軍が、平島からも官軍が上陸してきたので幕府方の庄屋とわかると首を切られるといって書類を焼いてしまいました。
それでも縁の下へかくしたこの地図や名刀などがたくさん残っています。

◆ 本間 美和子さん (14代目)

 祖父とは高1までいっしょに暮らしました。他の人にはとても怖い存在だったようですが、私にはすごく優しいおじいちゃまで、かわいがってもらった記憶だけが残っています。
 医師の道を選んだのも小さい頃から「医学系に進みなさい」とおじいちゃまに言われ続けたからでしょうか。
 わが家は260年ほど以前の、天保年間に入植し代々庄屋を受け継いできたと聞いています。私が小学生の頃まで、庭にはかなり高い築山があって、大人三人が囲むほど大きなイチョウがありましたが、新潟地震の影響で枯れてしまいました。いまは碁盤になったりしてますけれど…(笑)。
 祖父の時代には信濃川の鮭の漁業権をもっていました。そのせいでしょうか、父はよく「もう鮭は食べ飽きた」と言ってましたね。
 子ども時代を思い返せば、近所の友だちと遊び回っていた楽しい想い出ばかりです。現在は時間に追われて余裕がありませんが、この流作場で生まれ育った者としていつか郷土史を学びたいと思っています。     (談)

語る人 本間七郎治さん

流作場の昔 中天明町 本間七郎治さん


語る人シリーズ

1.流作場
  ■語る人 三社神社:大橋宮司さん
2.流作場の昔
  ■語る人 本間七郎治さん
3.三叉路付近の昔
  ■語る人 櫻井タミヰさん
4.商店街と流作場の今昔
  ■語る人 猪股昭英さん


古地図

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